桜島一周のしおり
桜島口・大正溶岩①
黒神中学校を過ぎると一瞬例の4回の大噴火による溶岩地帯ではなくなります。奈良時代、天平宝字8年(764年)の天平宝字大噴火の溶岩地帯になるそうです。歴史が古いです。
さあ、いよいよ大正溶岩の地帯に入っていきます。ご存じの方も多いかもしれませんが、大正大噴火というのは大正3年(1914年)1月12日に発生した大噴火です。午前10時05分に西側山腹、同15分に南東部から噴火しました。58人の死者を出しまして、未だに明治時代以降国内最大の噴火と言われています。この時の火山灰はロシアのカムチャッカ半島でも確認されたそうです。まさにここが溶岩によって大隅半島と陸続きになったところです。昔は海だったんだなーとか考えますよね。(あれ、考えない?)桜島の溶岩はハワイのものとは違い粘り気が強く、流れるスピードが遅いので陸続きになる瞬間は大隅半島側から見物する人もいたそうです。
国道220号線と合流します。左手側が国分・鹿児島空港方面です。左手奥にあるのは牛根大橋、垂水市との市境になるところです。白いアーチが絵になると思います。ここは桜島口と言い、桜島(フェリー経由で鹿児島市)、垂水・鹿屋、国分からの道が集まっている交通の要塞です。鹿児島交通のバス停は桜島口ですが、市営バスは黒神口という名前です。ほぼ同じ場所なのに。先の信号機を左折すると垂水市に入ります。私達は直進し国道224号線を進みます。
信号機の先はかつての瀬戸、脇集落になります。いずれの集落も大正溶岩で完全に埋没しました。ここには造船所があり、日本国産初の洋式軍艦として知られる「昇平丸」を就航させたところです。その昇平丸が日の丸を初めて公式に掲揚したことから日の丸発祥の地とも言われます。大噴火後、ここに住んでいた人々は垂水市大野原や鹿屋市花里など島外へ移住していきました。大正噴火により桜島全域から1万人近くの人が島外移住を余儀なくされたのですが、移住生活の多くは新たな居住地を鍬1本で切り開くところから始まったそうです。公共の食糧配給も足りるものではなく、茅葺の家で暮らしつつ町まで数十kmを歩いて薪を売り、水を汲んで帰る生活です。ただでさえ自分の家や家族を失ったのに。現代の私達には到底想像がつきません。
桜島が島だった時代には島廻り競争というのがありました。集落対抗で男性たちが船で桜島の周りを一周する速さを競うのです。それを女性たちが応援するときに踊っていたのが「桜島島廻り節」です。いまでも桜島小池町や東桜島町で伝統が受け継がれ、女性たちが踊っています。